父との会話で、真のバイリンガルになることを決意した慶應義塾大学SFC在学中の桂志帆さんのストーリー | バイリンガルへの道

父との会話で、真のバイリンガルになることを決意した慶應義塾大学SFC在学中の桂志帆さんのストーリー

父との会話で、真のバイリンガルになることを決意した慶應義塾大学SFC在学中の桂志帆さんのストーリー

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桂志帆さんの海外歴を教えてください。

父が旅行やブライダルの仕事をしていた関係で、海外の観光地で過ごしました。
オーストラリアで生まれて、ゴールドコーストに7歳まで住んでいました。その後、ケアンズに引っ越して、11年間オーストラリアに住んでいました。小学校6年生に進級する時に、次は日本に引っ越しました。日本の小学校6年生に編入して、小6と中学1年生の2年間を日本で過ごしました。次は、グアムに引っ越して、グアムで高校4年間を過ごしました。
日本で編入した小学校が、神戸大学発達科学部附属住吉小学校(現在、閉校)という国立の小学校で、1、2、3組が受験で入学した子たちで、4組は帰国子女のための特別なクラスで、私は4組に在籍しました。この小学校の出身者には、官僚の白洲次郎や俳優の森山未來がいます。
2012年にグアムの高校卒業した後に、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の総合政策学部に進学しました。

海外生活が長いと、自分のアイデンティティはどのように捉えていますか?

生まれてから11歳までオーストラリアで育った事もあり、国籍はオーストラリアと日本です。オーストラリアにいた時は、自分の事をオーストラリア人だと思っていて、父にも、「何で友達みんな髪の毛がブロンドや茶色なのに、何で私だけ黒いの?」と聞いていて、いつも父が困った顔をしていましたね。その後、日本に2年間住んでいた間に、自分が日本人であることに初めて気づきました。海外生活の時に使っていた言語は、学校では英語で、家では日本語と英語のミックスでした。

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日本に帰ってきた時、どんなカルチャーショックを受けましたか?

オーストラリア人がいきなり日本の教育、日本の学校に転校するみたいな感じで、カルチャーショックの連続でした。
まず驚いたのが、学校の机の向きが全部黒板の方を向いていることです。オーストラリアでは、ブロック形式か円になっていました。また、日本の学校は給食当番や掃除当番、集団での登下校、それから体育座りなど、みんなが同じ行動をとっていますよね。それが驚きでした。一体どこに来てしまったんだろうと。
欧米だとfashionably lateといって、ちょっと遅れていくのが恰好いいみたいな感じがあるんです。でも日本だと10分前行動とか、早めに行動するのが普通で、交通機関も時間通りに来る。オーストラリアの交通機関は時間通りに来た覚えがないので、逆に驚きました。
それから、オーストラリアではスナックタイムがあったので、日本でも小学校にお菓子を持って行ったら怒られました(笑)
日本では、授業中トイレに行くことも許されないですし、ルールがきっちりしていて、私は自由に伸び伸びと個人主義の世界で過ごしてきたので、驚きの連続でしたね。オーストラリアでは自分のやりたいことをやっていたのに、日本ではみんなと同じことする協調性が尊ばれました。
それから、日本には出された食べ物は全部食べるのがマナーという考え方があると思います。欧米だと食べたくなかったら、食べない、残すというのが自然でしたね。振り返ってみると、もったいないことをしていたなと感じるようになったのは日本の教育の影響だと思います。

オーストラリアと日本の授業の違いは?

オーストラリアの授業は、生徒を中心に授業を進めます。生徒がバンバン手を上げて、自分をアピールして主張して、意見を交わすことで、色んな知識も増えますし、新しい違った視点も得られます。そうやって自分の考え方や人間性を育んでいく教育です。日本の授業は、先生が前に立って、黒板に書くものを生徒がノートに丸写していくといった知識の蓄積が中心で、深く掘り下げてはいきません。
欧米だと、先生が生徒に問いかけるんです。何に対しても、「何でこうなんだろう?」と問いかけます。「あなたの意見は何ですか?」という質問が多くて、どんどん掘り下げていくんです。意見を交わしていく中で、生徒同士がディスカッションやデイベート、プレゼンテーションをしていくので、さらに新しい見解が生まれていきます。
英語には、丁寧な言い回しはありますが、敬語という概念がありません。なので、最初の頃は、先生に対しても敬語を使っていなかったので、今思うと変わった子供だったんだと思います。

日本に帰国してから、日本語と英語のバランスはどうでしたか?

オーストラリアの時は、英語で物事を考える「英語脳」だったのが、日本に来てからは、日本語で考える「日本語脳」になって、日本語が伸びた分、英語は衰えを感じました。それを補うために英会話塾に通いましたね。週1回、ネイティブの先生と帰国子女の少人数クラスでディスカッションを続けていたので、日本にいても英語力は維持できました。やはり英語は使わないとどんどん忘れていくので英会話塾には助かりました。

アメリカの準州であるグアムでは、どんな高校生活でしたか?

グアムで高校生活を始めた当初は、英会話とリーディングはできるんですけど、ライティングはオーストラリアにいた小学校のままストップしていたので、自分の主張や意見を文章で表現する力が不十分でした。いきなり小学校レベルから高校レベルにジャンプアップした感じでかなり辛かったです。

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TOEFL115点、SAT1900点という高得点の英語力はどうやって磨きましたか?

グアムでは、高校2年生から大学進学を意識してSAT (大学進学適性試験)の塾に通いました。毎週次の授業までにタイムマガジンを読んできなさい。全部丸まる1冊読んできなさい、という宿題があって、それを読んでこないと授業についていけませんでした。高校では扱わない経済も、政治のテーマも出てきたので、まず単語を理解するところからのスタートです。毎週続けていくうちに、半年経ったくらいから慣れてきました。毎日ライティングの宿題があり、自分の書いたエッセイを同じクラスの人たち3人にランダムに見てもらいました。他の人の意見や表現を自分の中にも取り入れて、ライティング力を磨いていきましたね。
リーディングしていく中で、わからない単語は1回調べたら意味を書き留めて、覚えて、の繰り返しをやりました。読んでいく中で、何回も同じ単語が登場するので、自然とボキャブラリーが増えていきましたね。

海外の大学の選択肢もあった中で、日本の慶應義塾大学への進学を決めたのですか?

父から「あなたはまだ、バイリンガルじゃないよ」と言われたことがきっかけで、日本語も文化もしっかりと学び、日本人としてのアイデンティティを確立するために、日本の大学への進学を決めました。
英語は高校レベルの力はありましたが、日本語は小学校レベルで止まっていたので、日本の大学に進学して、日本語も英語も世界で通用するレベルになって、本当の意味でバイリンガルになりたいと思ったんです。将来は、世界を舞台にして活動したいですね。

お勧めの洋書を教えてください。

Series of Unfortunate Events
不幸で可哀想な物語なんですけど、ある家族の3人兄弟が、突然両親の死を知らされて、引き取られ先の遠い親戚の遺産を横取りしようとして、色々企むんですけど、本当に不幸の上に更に不幸の連続なのに、何故かその中でも、ユーモア溢れる、面白味があるんです。いつの間にか物語の世界に吸い込まれていく、大好きなシリーズでした。

小さい時は、Matildaが大好きで、おすすめです。